草創期

記憶の整理のための独り言。その掃き溜め。

国立西洋美術館の常設展を見た

国立西洋美術館の常設展に行ってきた。(学生証を見せるとなんと無料)

よかった作品をいくつか記録しておく。

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ギュスターヴ・クールベ 「波」

ダイナミックでありながら静謐さもあるところに惹かれた。うっすら茜さす空に黒々とした海が映える。

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クロード・モネ 「舟遊び」

 モネの光の機微を捉え方が大好きだ。水面の表情を見るだけで、日ざしの方向や強さが見えてくる。

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エドガー・ドガ 「舞台袖の3人の踊り子」

舞台袖の薄暗さとそこに漂う緊張感のようなものが荒さの中に感じられる。俯く少女と黒いシルエットの男、とモチーフが情緒をかきたてる。

画像は見つかりませんでしたが、ヴィルヘルム・ハンマースホイの「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」もよかった。
印象派の中でも特にモネが好きな私としては、モネの作品がたくさん見られて昂った。
是非行ってみてください。

※画像は全て国立西洋美術館のHP(https://www.nmwa.go.jp/jp/index.html)から拾ってきました

試し書き:aikoを身体感覚に注目して読む

aikoの曲は、YouTubeに公開されている曲しか知らない(ストリーミング配信されていないのだ)が、結構好きだ。

J-POP然としていながらも、奇妙かつ強度のある曲もすごいのだけれど、歌詞もおもしろい。

彼女の歌詞の特徴として「身体感覚」の鋭さが挙げられると思う。

まずはお聞きください。aikoで『明日の歌』


aiko-『明日の歌』music video

歌詞https://www.uta-net.com/song/164614

暑いって言うかこの部屋には 想い出が多すぎる

 歌い出しからaikoかましてくる。

「って言うか」の意味は諸説ある(「むしろ」のような比較と補足の意味か、それとも若者言葉的なただの話題の転換なのか)が、「暑さ」という身体感覚と、ありあまる想い出を疎ましむ気持ちが結びつけられている。
夏の居心地の悪い蒸し「暑さ」、それにべた付く肌の気持ち悪さ。これらの身体感覚が「この部屋には想い出が多すぎる」というフレーズと重なって、生々しい感情を立ち上げる。

aikoの「身体感覚」の鋭さは、そのまま「観察力」の鋭さにも繋がる。

冒頭に続くフレーズはなんてことない、失恋した人の想い出の物と、時の流れにさいなまれる描写(古くなる写真)なのだが、そこで

このTシャツの襟もやわらかくなって

このフレーズが飛び出してくる。普通なら見逃してしまうディテールだ。

2番の冒頭は、1番を受けた形で表れる。

汗とか何だか解らない辛いものを
暑いって理由で全部流してしまおう
濡れた髪の毛を握った もうあなたに触ってもらえないんだな

ここではもう、感情と身体が完全にシンクロしている。
「暑さ」と「想い出」を払うために、歌詞の主体はシャワーを浴びる。そこで行う「濡れた髪の毛を握る」という何気ない、些細な行動がまた想い出と時の流れを思い起こさせる。
ディテールに凝ると、物語を展開することが難しくなるように思うが、aikoはそれを両立できてしまうのだ。

薄暗い冷たい廊下を歩くと冷たい床が足下から悲しくする

シャワーを浴びても払えない疎ましさ。その疎ましさと結びついていた「暑さ」の真逆である「冷たさ」さえも、歌詞の主体の心を痛めつける。「身体感覚」の範囲が非常に広い。

aikoの歌詞は、そこに描かれる感情は非常に生々しい。それは「身体感覚」に裏付けられているものだ。

唇かんで指で触ってあなたとのキス確かめてたら
『ボーイフレンド』

キス=大切な瞬間を身体(唇、指)で確かめる。

悩んでる身体が熱くて 指先は凍える程冷たい 
『カブトムシ』

心に秘めた恋は熱いのに、外へと表現することができない。それに呼応する身体。

夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろして
『花火』

空想の中でも、確かな「ぶらさがる」という主体の身体感覚。

もっと心躍る世界が すぐ隣にあったとしても
乱れたあなたの髪に触れられるこの世界がいい
『milk』

望むのは、触覚という身体感覚。

aikoの歌詞では、主体の身体が確かに存在する。その身体で、恋のはじまり、恋のときめき、失恋と向き合う。

aikoの歌詞は文字通り「体当たり」なのだ。

p.s
本文の主旨とはそれるので書かなかったが、この歌詞の一番刺さるのはこれなのだ。

あなたの唇触ってみたいけど 笑ってそしらぬ顔して見ていた
言いたいことが言えなくてもあなたの言葉に頷くだけで嬉しかったの
その唇は今夜もあの子に触れる

あなたの唇への執着をしっかり描写した後にくる、鮮烈な裏切りのフレーズ。このサビへの導入、サビが霞んでしまう。(サビはサビで抽象的だけど、おもしろい)

 

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aikoのアルバム『泡のような愛だった』(『明日の歌』収録)

 

試し書き:肩こりが分からない

※ この文章は分からないことを分からねぇー! って言う文章です。

自分の話

生まれてこのかた、肩がこった経験がない。

中高となかなかに教材の多い学校に通っていたうえ、自分は置き勉(漢字で書くと気持ち悪い)をほぼほぼしない子だったので、文化部のわりには肩に負担をかけていた。
そのせいか時々肩が重く感じることがあり、このことを「肩こり」と言うのだと思っていた。が、親に肩を揉んでもらうと、毎度全くこっていないと言われるのだ。

親の勘違いとも考えられるけど、クラスメートから肩こりの話を聞いてもピンとこないから、自分は肩こりを経験していない、分からないのだと思いこんでいる。

何故「肩こり」の共通認識を人は持てるのか?

しかし逆に、何故皆は自分の肩に感じる違和感を「肩こり」だと思いこむことができるのだろう。

皆それぞれに別々の身体を持っているのに、自分が肩に感じる違和感と、他人が肩に感じる違和感を同じ「肩こり」として、何故認識できるのだろう。
そもそも、皆は、いかにして自分の肩に感じる違和感が、世間のいう「肩こり」であると断定できるのだろう、いかにして「肩こり」が「肩こり」であることを学んだのだろう。

分からん。

身体における他の例で考えてみる

極論を言ってしまえば、他人と自分が全く同じ身体を持たない以上、身体の感覚を他人と共有すること、共通認識を持つことは不可能。擦り傷、癌、頭痛など全てにおいて。
しかし、経験と想像力で補って共通の認識をつくるのだと思う。

擦り傷の例。これは視覚で知覚できる。そのため、共通認識をもつことと、自分の経験を省みるをことで、他人の感じる痛みを想像することができる。

癌の例。これは他人から知覚することは難しい。しかし、医学的知識、根拠から「癌」の共通認識を持つことはできる。

頭痛の例。これは肩こりに一番近い。視覚等で他人からは知覚できないうえ、日常的に感じる些細なレベルでは医学的な根拠等もない。
しかし、「肩こり」の共通認識を持てない自分でも、「頭痛」の共通認識を持つことはできる。(何故かは分からん)

なんでこんな「肩こり」にこだわるのか

「肩こり」を認識できないのが、自分だけなら自分がおかしいという話で済ませるが、そういう風にはできない。
なぜなら、日本人以外に「肩こり」という概念を持つ人は少ないからだ。(確かなソースはない)
ただ、外国人の場合は言語が違う、つまり認識、把握の仕方が違うはず(サピア=ウォーフ仮説)なので、やっぱり日本人の中では自分が変なだけなのかもしれない。
(そうだとしても、何故自分がそのように変なのかは気になる)

 

まとめ

自分の思考が正しいとは思っていないが、とりあえず勢いで書いて自分の考えを整理してもよく分からなかった。残念。愚かさを曝け出していくスタイルです。

有識者の方、是非何か教えてください。

私たちの普通


[Official Music Video] Perfume「Dream Fighter」

この曲の歌詞に衝撃を受けたことがある。

ねぇ みんなが いう 「普通」 ってさ
なん だかんだっで 実際はたぶん
真ん中じゃなく 理想にちかい

PerfumeDream Fighter」 作詞:中田ヤスタカ

 「普通」=「理想」であるとこの歌詞は言う。

この歌詞を聞いて思い出したのは小学校の二分の一成人式のことだ。
学年の生徒が一同に会して、一人一人自分の将来の夢を保護者に向かって叫ぶのである。
皆がサッカー選手や野球選手になりたいと言う中、一人、サラリーマンになりたいという人がいた。
これは保護者の笑いを買っていたけれど、本人はわりと本気だったんじゃないかと思う。

これは私の勝手な考えだけれど、サッカー選手や野球選手と口にする人も、皆その理想が叶うことはほぼありえないことを分かっていたんじゃないか。
そのことを受け入れていたから、その人はサラリーマンを夢として掲げたんじゃないか。

これが、「諦め」を簡単に受け入れる悟り世代の普通なのかもしれない。

駅という場所

東京駅に限らず、駅というのはこういう場所であると思う。
同じ場所にいるにも関わらず、皆それぞれに意識は違う場所に向いている。

そんな、ある意味とっても空虚な場所なのかもしれない。

ホームレスが駅に多いのはこういう不思議な場所だからじゃないかと思う。

どんなに毎日利用している駅でも、駅はその人にとって私的な空間になることはない。(公共の場だからあたりまえなのだけれど)

だから、人は駅にホームレスが居つくことに何の関心も示さない。
東京なんかは特にそうで、道行く人がホームレスに目を向けることは全くない。ホームレスは風景となっている。

一方、家の近所の公園、広場にホームレスがいれば顔をしかめる人はいるだろう。(決して私がホームレスを否定しているわけではない)

駅、というのは人々の生活圏にありながら、人々の意識の中にはない場所なのかと、そんなことを考えた。

斉藤由貴「卒業」

ああ卒業式で泣かないと
冷たい人と言われそう
でももっと哀しい瞬間に
涙はとっておきたいの

斉藤由貴「卒業」作詞:松本隆

普段、曲を聞く時に歌詞は気にしない性である。
だから歌詞の意味をカラオケで歌いながら理解することがある。

『もっと哀しい瞬間』って何なのか。

離れても電話するよと
小指差し出して言うけど
守れそうにない約束は
しない方がいい ごめんね

セーラーの薄いスカーフで
止まった時間を結びたい
だけど東京で変ってく
あなたの未来は縛れない

 

変わること、変わらざるをえないということ。

反対のホームに立つ二人
時の電車がいま引き裂いた

引き裂かれたその先の時間に、引き裂かれた瞬間よりも深い哀しみがあるのだと思う。

同窓会に行けなかったのが悲しい。

p.s

カップラーメンのCMに斉藤由貴とこの曲が使われていて、またこのCMが最高なのです。斉藤由貴の放つ儚い輝きといいますか、なんといいますか。

明星 青春という名のラーメン CM 斉藤由貴 - YouTube

川、川、川

川、川、川……

三原に向かう電車の窓に次々に川が映る。

川が好きだ。流れる水が好きだ。
理由はいくつも思いつくけれど、そんな理由を置き去りにしても好きだ。

大学生活の中で目にするのは池、流れない水だから、帰省して見る川、流れる水は新鮮に懐かしかった。

池の凪いだ光とは異なる、川のはやさと電車のはやさの交差が生む光。その一瞬一瞬。

眺めていると、不自然に崩れた川岸、岩、砂利の山に気づく。
7月の豪雨の跡。

 そう気づいても、川に恐れを抱きはしないことがうっすら恐かった。