草創期

記憶の整理のための独り言。その掃き溜め。

試し書き:肩こりが分からない

※ この文章は分からないことを分からねぇー! って言う文章です。

自分の話

生まれてこのかた、肩がこった経験がない。

中高となかなかに教材の多い学校に通っていたうえ、自分は置き勉(漢字で書くと気持ち悪い)をほぼほぼしない子だったので、文化部のわりには肩に負担をかけていた。
そのせいか時々肩が重く感じることがあり、このことを「肩こり」と言うのだと思っていた。が、親に肩を揉んでもらうと、毎度全くこっていないと言われるのだ。

親の勘違いとも考えられるけど、クラスメートから肩こりの話を聞いてもピンとこないから、自分は肩こりを経験していない、分からないのだと思いこんでいる。

何故「肩こり」の共通認識を人は持てるのか?

しかし逆に、何故皆は自分の肩に感じる違和感を「肩こり」だと思いこむことができるのだろう。

皆それぞれに別々の身体を持っているのに、自分が肩に感じる違和感と、他人が肩に感じる違和感を同じ「肩こり」として、何故認識できるのだろう。
そもそも、皆は、いかにして自分の肩に感じる違和感が、世間のいう「肩こり」であると断定できるのだろう、いかにして「肩こり」が「肩こり」であることを学んだのだろう。

分からん。

身体における他の例で考えてみる

極論を言ってしまえば、他人と自分が全く同じ身体を持たない以上、身体の感覚を他人と共有すること、共通認識を持つことは不可能。擦り傷、癌、頭痛など全てにおいて。
しかし、経験と想像力で補って共通の認識をつくるのだと思う。

擦り傷の例。これは視覚で知覚できる。そのため、共通認識をもつことと、自分の経験を省みるをことで、他人の感じる痛みを想像することができる。

癌の例。これは他人から知覚することは難しい。しかし、医学的知識、根拠から「癌」の共通認識を持つことはできる。

頭痛の例。これは肩こりに一番近い。視覚等で他人からは知覚できないうえ、日常的に感じる些細なレベルでは医学的な根拠等もない。
しかし、「肩こり」の共通認識を持てない自分でも、「頭痛」の共通認識を持つことはできる。(何故かは分からん)

なんでこんな「肩こり」にこだわるのか

「肩こり」を認識できないのが、自分だけなら自分がおかしいという話で済ませるが、そういう風にはできない。
なぜなら、日本人以外に「肩こり」という概念を持つ人は少ないからだ。(確かなソースはない)
ただ、外国人の場合は言語が違う、つまり認識、把握の仕方が違うはず(サピア=ウォーフ仮説)なので、やっぱり日本人の中では自分が変なだけなのかもしれない。
(そうだとしても、何故自分がそのように変なのかは気になる)

 

まとめ

自分の思考が正しいとは思っていないが、とりあえず勢いで書いて自分の考えを整理してもよく分からなかった。残念。愚かさを曝け出していくスタイルです。

有識者の方、是非何か教えてください。